今日は菊さんのお誕生日なのだそうだ。なぜこんな言い方をするのかと言うと、それは私がそのことを聞いたのが昨日のことだからである。一緒にお話していたエリザベータちゃんに言われて初めて知った私がもちろんプレゼントなど用意してるわけもなく、結局何も出来ぬままこの日を迎えてしまった。


家(というよりも屋敷に近い)の中をテクテクと歩き、菊さんを探していると、縁側の方からなんだか懐かしい匂いがした。縁側に着くと、そこにはお線香を焚いた側で、菊さんが湯のみに入ったお茶を啜っていた。私が佇んでいると菊さんがこちらを向いて「おいでなさい。」と手招きをした。


「何をしていらっしゃるんですか?」


私が菊さんに淹れてもらったお茶を受け取ると、菊さんはやんわりと笑って口を開いた。
「思い出していたんですよ、昔のことをね。」
「昔・・・?」
昔。昔とは一体どれくらい前のことなのだろう。菊さんにとっての「昔」とはいつの頃なのだろう。私と違って何百年と生きてきた菊さんのそれを知るのは、私には難しいことだった。


「ええ。そうでですね、今から60年以上前のことになりますね。」
「60年以上前・・・。ちょうど、戦争が終わる頃ですね。」
「ええ、その通りです。その頃じゃあ、あなたのご両親もまだ生まれていらっしゃらないですね。」
そうか。両親もまだ産まれてきていないような頃か。
そうは思うものの私にとって親は生まれたときから常に近くにあった存在だったので、その両親がまだいない世界というのは考えづらかった。それに比べて、60年も前のことを「つい最近のこと」を話すような口振りの菊さんは、いつもよりも大きくて遠い存在のように感じた。菊さんは私の心情を悟ってか、お茶の入った湯のみを見つめながらゆっくりと話し始めた。


「歳をとるとね、色々と考え事が多くなるんですよ。特に今日のような特別な日には、よく若い頃を思い出します。先程あなたが仰ったように、60年前というのは戦後間もない頃でした。みな戦争での傷が癒えないままでしたが、それでも世界に追いつこうと必死でした。天皇中心の政治が終わり、米国の指導の下、憲法がつくられ、国がつくられていきました。  さんは、憲法9条をご存知ですか。」
「えと、2度と戦争をしない、っていうのですよね。」
「ええ、「平和主義」もしくは「戦争放棄」と言ったりもしますね。私たちは今、平和な日常を過ごしていますが、それはたった60年の出来事なのです。あなた方にしてみたら、その年月は人生の半分以上の長さですが、私にとってはほんの少しの時間でしかありません。争い、血を流して何かを得てきた時間のほうが遥かに長いのです。平和を手に入れるために何十年、何百年と戦い続けて、何千万、何億という犠牲が出ました。けれど平和を手に入れることが出来たのは、戦いを止めたからでした。数え切れない人々が平和のために、崇拝する者のために剣を振るい、命を落としたにも拘らず、戦うことをやめた私たちがそれらを得てしまいました。皮肉なことです。今の人々から見れば、何故そんなに争いをしたんだと思われるかもしれません。けれど私はそれらを無駄だった、と思いたくないのです。確かに愚かだったかもしれない、無意味だったかもしれない。でも私はそうして傷付いて、失って、今やっと平和を手に入れたのだと思いたいのです。無駄ではなくて、大きな糧だったと思いたいのです。だから時たま、こうしてお香を焚いて、犠牲になった時や人々が安らかに眠っていられるように祈っているのです。」


「お盆だけじゃ見送りきれないですからね」と言って菊さんは私にふんわりと微笑みかけた。それから一息つくようにお茶を啜ると、目を細めて天を仰ぎ見た。つられて私も空を見上げる。澄み切った快晴の空に、線香の匂いがうっすらと昇るけむりと一緒に消えていった。菊さんの話は少し難しかったけれど、何が言いたいのかは分かった気がした。


「菊さん、」
「なんですか。」
「お誕生日おめでとうございます。産まれてきてくださってありがとうございます。今日お話をしてくださってありがとうございます。あの、私今日何も用意してなくて、代わりと言っては何ですが今日は私が菊さんのためにご馳走をつくります!」
私が身を乗り出して喋ると、菊さんは一瞬驚いたような顔をして、それから「ありがとうございます。」と笑ってくれた。


「私は菊さんと違って何百年も生きてないし、昔の人々のように何かを得る為に戦ったこともありません。けれど私はこうして菊さんと過ごす時、とても幸せです。当たり前のように平和な生活を送れることがとても幸せです。こんな風にしてくれたのが、昔の菊さんやかつての争いならば、私はそれを無駄だったとはちっとも思いません。それに、これからこの平和な世界を何百年、何千年と続けていけばいいじゃないですか。」
「、そうですね。その通りです。」
そう言って菊さんは楽しそうに笑って、それから湯のみを盆にことん、と置くと「さん、」私の名前を呼んだ。
「はい。」
菊さんの手が私の頭を撫でる。菊さんの着物の袖からはほんのりと線香の香りがした。



「私も、あなたと過ごせてとても幸せです。」

 

 


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