地味だとかなんとか言われるけれど、これでも仕事に関してはきっちりこなしているつもりだった。下っぱとはいえ、観察という大事な仕事を任されているということは、信頼があるからこそだろうと自分でも思っていたからだ。それはとても嬉しいことであり、自分でも期待に応えよう、と必死に頑張ってきた。
 そう、頑張ってきた、のに。ここにきて俺は俺を信じてくれてる人達を裏切ろうとしているのか?自分の個人的な感情のために?そんなこと出来るわけがない。出来るわけない、はずなのに、彼女のふわりとしたその笑顔を見るたびに覚悟が揺らぐ。どんなに意を決しても、簡単にぐらつく思いに恐怖さえ感じる。思えば此れ程までに強烈に恋心を抱くのは初めてだった。なるほど、恋慕とはこんなにも激しく感情を揺さ振るものだったのか、と今更ながらに気付いた。そして多分気付いた時にはもう遅かったんだ。俺はもう彼女をどうしようもない程愛してしまっていた。




「山崎くん、ご飯だよ。」
 ぱたぱたとこちらにやってきた彼女が、またあのふわりとした笑みを浮かべてそう言った。わざわざ呼びに来てくれたのかと思うと、それだけで嬉しくなった。自分の心が彼女の笑顔と同じようにふわふわとするのが分かる。
「今行きますよ。」
笑いながらそう言って、彼女と並んで食堂へ向かう。
「山崎くんは仕事熱心だねえ。」
「仕事がたまってるだけですよ。副長は人使いが荒いんだから。」
「土方さんも山崎くんのこと頼りにしてるんだよ、きっと。」
「そうだといいんですけどねえ。」
苦笑しながら食堂の扉を開くと美味しそうな匂いが漂ってくる。
 「じゃあ、私配膳を手伝ってくるね。」笑顔でそう残すと、彼女は再びぱたぱたと音をさせて離れていった。


 彼女の遠ざかる背中を見つめて溜息をつく。ああ、また俺は何も言えなかった。






 彼女がここにやって来たのは半年ほど前だろうか。名前はと言って、この屯所に女中として住み込みで働いている。彼女は自分のことはあまり話さなかったが、人当たりの良さと持ち前の器量もあってすぐに馴染んでいった。


 ある夜のこと、俺は攘夷浪士が集まっているという噂がある宿屋へ潜入捜査していた。
「(もう一週間張り込んでるけど特に怪しい人間もいないし、こりゃ外れかなあ)」
疲れも感じ始め、そろそろ潮時かと思っていたその時だった。見張っていた部屋に男が一人やってきた。もうすでに時刻は0時を過ぎていたが、俺は一気に目が覚めた。危なげなく窓枠へと腰を下ろすその男の顔が、月明かりによって照らされてはっきりと確認することができた。
「まさか、」
その顔を見て一気に全身に緊張が走る。間違いない。あの紫色の着物、煙管、左目を覆う包帯。
高杉晋助…。
 まさかこんな大物がやってくるとは。はやる気持ちを抑えて、息を殺して見つめる。焦ってはいけない。確実に情報を掴まなければ。高杉はしばらく一人で煙管をふかせていたが、ふっ、と部屋の襖へと目を移した。それと同時に一人の人間が襖を開いて現れた。


「…なんで、」


 ぽつりと言葉がこぼれた。


 目を見開いて現れた人間を見る。心臓がバクバクと大きく脈を打っている。あれは、
   あれはだ。

 

 その後のことを俺はよく覚えていない。どうやって帰ってきたのか。いつの間に自室に戻ったのか。ほとんど思い出せなかった。
 いや、思い出したくなかったのだ。見たもの聞いたものを全て忘れ去りたかった。けれど、彼女を見るたびに目に焼き付いてしまったあの顔が浮かぶ。敵である高杉に向かって、いつもの笑顔を浮かべるの顔を。


 は鬼兵隊のスパイだった。その事を俺はほとんど確信しつつも、誰にも言い出せないでいた。敵が懐にいるというのに自分は何をしているのか。そう思い、副長に報告しに行こうとする度に、足が止まってしまう。
 そう俺は敵である彼女に恋心を抱いてしまっていた。自分でも気付かないうちに、彼女を好きになっていたのだ。いつ好きになったのか、きっかけはなんだったのか、自分でも分からない。けれど、その甘くふわふわとしていたはずの気持ちがあの日を境に、苦くどろどろとしたものとなって俺にのしかかっているのは確かだった。
 副長に言えないのなら直接彼女に問いただそうとも試みたが、何度決意を固めても先の通りに言えずじまいのままだった。


 もしも彼女に話をしたら彼女は何と言うのだろう。俺を殺しにかかるのだろうか。そうなったとして、おそらく俺は抵抗しないだろう。彼女の殺意を甘んじて受け入れるだろう。
 だって彼女を好きになってしまった。敵だと分かっていても、いずれ殺されるかもしれないとしても、それでもいいと思えるほどに愛してしまった。




 けれど、俺はそれで良かったとしても。他の皆は駄目だ。俺を信じてくれている人達を、俺のせいで傷つける訳にはいかない。裏切るわけにはいかないのだ。


 俺は食事を終えた後、誰にも気付かれないよう、を呼び出した。自分の気持ちに決着をつけなければいけない。

 

 

「話ってなあに?山崎くん。」


 皆が寝静まった頃、彼女は約束通り俺の部屋へやってきた。
「大事な話が、あるんです。」
 俺は真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。彼女はいつもの俺の好きなあの笑顔を浮かべていた。けれど、もうその笑顔が本心なのかもよく分からない。


「俺、見たんですよ。」
「なにを?」


「あなたが、高杉に会っているところを。」


言った瞬間彼女の顔色が変わったのが分かった。笑顔を崩さないまま、彼女はゆっくり口を開いた。
「そう。知ってたんだ、山崎くん。」
 ふっと哀しそうに笑う彼女を見て、胸が苦しくなる。分かっていたはずなのに、改めて彼女の口から聞かされると心臓を抉られたような気持ちになった。


「あなたは敵なんですね。」
「…、そうだね。 私は真選組の情報を得るためのスパイだから。」
彼女は淡々とした調子で話す。それが更に俺を追い詰める。


「ねえ、山崎くん。私も聞いていい?」
「なんですか。」


「どうして今まで黙ってたの?とっくに分かってたんでしょ?」


「それは、」


 それは、あなたが好きだからです。


 心の中の言葉を口にすることはなく、すっ、と後ろ手に隠していた刀を抜いた。そして彼女の首すれすれのところで刃を止める。「このまま何も言わず、探らず、ここから消えてくれませんか。」俺がそう言うと彼女はきょとん、とした。
「殺さないの?どうして?」
 殺さないんじゃなくて殺せないんですよ、とは言わずに俺はふっと笑う。


「あなたこそ、どうしてなんですか?」


「え?」


「あの時、高杉に会った時、あなたは奴らが有益になる情報をほとんど話さなかった。スパイ失格じゃないですか?」
「なんだ話も聞いてたの。」
そう言って彼女はくすくすと笑った。それからすくっと立ち上がり、障子を開けた。俺はそれを止めることなくただ見つめていた。


「じやあ、行くね。」
「はい。」


「私、敵だったけど山崎くんのことは嫌いじゃなかったよ。」
「はい。」


「ありがとう、さよなら。」


 笑いながらそう言うと、いつもの彼女からは想像出来ない俊敏な動きで夜の闇に消えていった。



「さようなら、さん。」
俺は彼女が消えた後もしばらく闇を見つめていた。





 どうしようもない恋だった。情けないことに、俺は多分これからも彼女のことを思い出し、どうすれば良かったのか、と後悔して苦しむのだろう。
 けれど彼女を愛していたことを後悔はしていない。彼女を逃がしたことも。たとえ叶わない恋だったとしても。
 もしかしたら彼女は俺が彼女の正体が分かってることに気付いていたのかもしれない。俺が彼女に好意を持っていたことに気付いていたのかもしれない。けれど、もう何も分からない。その彼女はいなくなってしまったのだから。
 彼女は今も高杉の元で働いているのだろう。彼女がなぜ高杉の元で働いているのかは知らない。どんな人生を送ってきたのかも、知らない。という名前すら本物だったのかも分からない。

 

 

 けれどひとつだけ知っているんだ。多分誰も気付いていない彼女の秘密を。俺と同じ、最後まで打ち明けることのなかったその気持ちを。


 それは副長の話をすると少し彼女が嬉しそうな顔になること。
 いつも朗らかな彼女が副長の前だと少し緊張した顔になること。
 それからこっそり幸せそうな顔で笑うこと。
 そしておそらくそれが、
 あの晩高杉に伝えなかったことに関係しているのだ、と。



 そう、俺は知っているんだ。
 彼女もまた、叶わぬ恋をしていたことを。

 

カミサマには


  内緒にしてね

 

 

title:TigerLily
「Je t'aime」様に参加させていただきました。